愛媛大学校友会ブログ

Edit:2015/06/10

【特集】愛媛大学御幸学生宿舎-3 (回想編-2)

今年の1月に,佐伯雅弘様から昭和55年頃の御幸寮について寄稿いただき,ブログに掲載しました。

今回は首都圏支部の三宅一夫様より,昭和39年頃の御幸寮について原稿をいただきましたのでご紹介いたします。
三宅様,大変貴重なお話とお写真 ありがとうございました。

今後もこのような原稿やお写真をお待ちしておりますので、ご協力よろしくお願いいたします。

------------------------------------------

御幸寮の思い出
                               三宅 一夫(昭和43年文理学部文乙(経)卒

昭和39年 東京オリンピックの年 3月岡山県都窪郡庄村松島(現、倉敷市松島)から山陽本線の岡山駅で宇野線に乗り換えて、宇高連絡船で四国にわたり、高松から松山まで、準急(当時特急電車はありませんでした)で約2時間半、やっと着いたのが、松山駅でした。路面電車で城北廻りに乗り、木屋町駅で下車して御幸寮に行ったのが今でも大変懐かしく思い出されます。寮について事務室で手続きして、北寮の1階の自室まで裸電球がぶら下がった暗い廊下、足元をよく見ないと床の板に穴が開いていたのを今でもはっきりと覚えています。「とんでもないところに来た」と思いながら自室に入ると、畳部屋(3人部屋)に座り机が3つ窓際に並んでいました。1年先輩の方が指導寮生として新入寮生2名との相部屋でした。

 当時の御幸寮は、北寮・南寮・青雲寮でした。青雲寮は翌年(昭和40年)御幸女子寮として鉄筋コンクリート3階建てが立ち、祝谷女子寮が閉鎖されました。その年他大学の男子が真夜中に女子寮に忍び込み、女子寮生の叫び声に我々は、直ちに女子寮の捜索と女子寮を朝方まで、取り囲み全員で輪を組んで警備したことが、今でも懐かしい思い出の一つです。

 入寮当時の食事代は、3食で90円でした。朝ごはんは13円、今でもよく覚えています。炊務委員をしていた私は、炊事の人達と夕方の食材の買い出しに同行し、食材の購入に苦労されていることを目にしました。売れ残ったキャベツ・じゃがいもは少々ひなびている安いものを買い、お米は5等米に外米を混ぜたものでした。2年になるころ、90円ではもうやっていけないと言われ、寮費の値上げを検討し、5円値上げして、1日95円の案を寮生会議に提案。寮生の猛烈な反対で苦労しましたが、何とか合意を取り付けたのも良い思い出です。

 入寮した昭和39年は、まだ旧制高校のバンカラな雰囲気があり、先輩と廊下ですれ違う時は、90度のお辞儀を強要され、1年365日深夜から朝方までストームと言って先輩から説教の毎日でした。大学祭・寮対抗球技大会・学内対抗カッターレース大会(梅津寺)などの行事の後、日本酒を大釜で熱燗にして"やかん"に入れ、コップについで回り、楽しい飲み会(コンパ)が始まりました。こうしたコンパは度々開かれ、学生時代の楽しい思い出となりました。

 行き過ぎたバンカラは、今後見直そうと若手が団結して寮の自治権を先輩から奪取し、バンカラを一掃して、昭和40年春新入生を迎えました。南寮の先輩達からバンカラ一掃には同意するが、『2階の窓からおしっこをするのは認めてほしい。』と言われました。これは、昔からの伝統でしたが、一階の自転車置き場のトタン屋根に当たり、1階の廊下に入ってくるので、何とも不潔なことでした。どう解決したか覚えていませんが、次第にこの風習も無くなっていきました。

 2年生になって、同僚・後輩たちにバンカラがどのようなものか見せようと、私が団長となって当時バンカラの風習が強く残っていた高知大学南溟寮に御幸寮生12名を連れて視察旅行に行きました。8回生は正に神様扱いで、羽織袴をはいて8回生の後には、7回生、6回生と続き竹刀を持って学内を歩くことや、「ゲテモノ喰いクラブ」「忍者クラブ」など当時の愛媛大学にはないクラブが沢山存在していました。

 そして夏休みを迎え、大半の寮生も帰省、私も帰省しました。そして、9月寮に戻ってきたときの驚きを今思い出します。北寮・南寮の窓ガラスが全部割れていました。夏休みに残っていた寮生(多分先輩達)が酒の勢いで割ったように聞きました。バンカラ一掃の付けが回って来たようでしたが、私はすぐに大学に説明をしに行き、頭を下げてお願いして、ガラス窓も元通りしていただきました。

 9月になって、古い寮を立て直し、鉄筋の新しい寮建設の話が大学側からあり、新寮建設が大きな寮問題として浮上し、ほとんど寝る時間がなく、委員会の議論に明け暮れ 最終的に昭和41年3月に新寮建設の結論が出て、疲れ果てた私は退寮を決意しました。

 卒業後、新しくなった寮の話を聞く度に懐かしい古の御幸寮を思い出していましたが、しばらくして恩師の故、若林学部長から学生運動でのご苦労や御幸寮の荒れた話を聞く度に 一抹の寂しさを感じておりました。

 しかし、最近の御幸学生寄宿舎は古の面影もなく、立派な生活環境に生まれ変わり、素晴らしい環境の中で過ごされている学生さんたちのことを思うと、この50年間の歩みは間違っていなかったと痛感しています。

 今でも、昭和40年卒業生以降の御幸寮生同窓会が開催されているようです。今年も9月に松山で開催されると先日聞きました。何人か懐かしい方々が参加されるようで、今50年前の御幸寮での懐かしい思い出に浸っています。

 2015年1月に投稿された佐伯さんの御幸寮の思い出を拝読し、佐伯さんの過ごされた御幸寮の前の御幸寮の思い出を辿ってみました。長文・駄文で 思いつくまま記述し大変失礼いたしました。              
                                                                                                                                                                       以上



20150610-1.jpg 20150610-2.jpg
<昭和29年 御幸寮発足当時の正門で当時の寮生>   <昭和39年 松山市オリンピック聖火リレー>
 (昭和32年文乙(経)卒 高田恒夫氏 寄贈)

20150610-3.jpg 20150610-4.jpg
<昭和40年 大学祭での御幸寮ステテコ踊り行進>    <昭和40年 学内カッターレース大会>
 (旗手: 三宅様)                        (御幸女子寮チーム)
" 春が~ 来たかよ~ 御幸寮のお庭によ~ 桜 咲いた咲いた ステテコ シャンシャン "

20150610-5.jpg 20150610-6.jpg
<昭和39年 寮対抗競技会打ち上げ 御幸寮にて>   <昭和39年 御幸寮 自室にて (三宅様)>

20150610-7.jpg
<昭和40年 新築した御幸女子寮>
(右の建物は,南寮と廊下で繋がっていた集会室。この室でオリンピックをテレビ観戦した。)

20150610-8.jpg
<昭和40年 学園祭でステテコ踊りに出発/御幸寮生と御世話になっている炊事の方々 (左の旗手:三宅様)>


  • 1
  • 愛媛大学校友会
  • 愛媛大学